細田守監督「おおかみこどもの雨と雪」〜親殺しとギリシャ神話の物語!?〜

観てきました。細田守監督「おおかみこどもの雨と雪」です。

観てない方、いきなりざっくり言いますよ。感想見たくないかたは、下にスクロールしないでね!下へ行くほどネタバレしまくっていきます笑。

 

 

 

 

 

なんか惜しい!

なんか鑑賞後の感じが惜しかったんだよな〜!

それは多分ストーリーによるものが大きかったのかと思う。お母さんの花と、息子の雨と、娘の雪、それぞれが主人公クラスの描き方だけど、結果的に中盤まで最も話しを引っ張っていた花が置いてかれてしまった感があったからかな。(それとも俺の隣りに座ったカップルが開始15分遅れて来やがるわ、彼氏がしゃべるわ、彼女のリアクションが一々デカくて鼻についてしまうわの波状攻撃にあったからかもしれない。ブラックスワンの時もそうだった。俺というより、その映画の監督に謝れ!!!俺は次会ったらお前らにサミングを食らわしてヨガフレイムだぞ!!!)

ま、そんなストーリーの話はネット上でも結構言われてるので、僕は、僕が凄いと思ったこと書こうかな。主に二点。

 

●まず一点目。

とにかく背景が綺麗。冒頭の花畑、オオカミ男の告白場所、農村の風景、雪景色、雨模様、山や峰…もうここに相当力入ってると思った。映画はまず視覚、画だから、これが凄いだけで良いんです、僕的に。木村大作監督の「剱岳 点の記」も風景が圧倒的すぎて、ストーリー云々より映画のパワー、監督やスタッフの根性に泣けたもん。

そしてそれら季節や気候、天気を最大限に活用したシーンづくりの演出に脱帽。元々題名にも雨と雪などと入ってるくらいだから。初めて雪が降った日のシークエンスとか凄い。雪原を駆け抜ける子どもたち、花、そして目線カメラの迫力と、粉雪の舞い散るさま。なんだかわからないけど良かった映画っていうのは、全体像がおぼろげでも、強烈なシーンが頭ン中に二三個残っているものだ、なんてどっかの脚本家(多分ブレイク・スナイダー)が書いていたが、そのとおりだと思う。しかもそのシーンが実はこの映画の、重要なターニングポイントへと繋がっていようとは…。

僕の好きなカラックスの「汚れた血」とかウォン・カーワイの「天使の涙」とか、「AKIRA」や宮崎駿監督の映画も、強烈なワンシーンや強烈なカットがまず誰の頭にも浮かび、結局それが、あの映画なんか面白かった、な部分につながっていると思う。事実、数年ぶりに同じ映画を見たら記憶にないシーンがあったりしてビビる笑。天空の城ラピュタでさえも、パズーがシータを救えず、いじけて帰るシーンとか記憶になかった。。

後はラストの雪と草平のシーン。詳しくは置いておくけど、感動的。カーテンと風と雨とブルー。そして雨のシークエンスで天候は移り変わり…。あの夏?の、山あいの空気が変わっていく様が心地よく。

ちょっと残念なのは、ラストの花が雨に連れて来られた駐車場。その時の花側の背景が、面白くもなんともないし、立体感もない。あんなに良いシーンなのに勿体無いです!

そういえば「ももへの手紙」もラスト近くが暴風雨だったっけ…。2つの映画の風景や空気の描き方を比べると面白いかもな。

 

 

●二点目。親と子の物語について。

はっきり言うけど、コレは親殺しの物語だと思う!

 

まず、この「おおかみこども」では娘の雪と息子の雨が成長していく過程が、とても繊細に描かれている。もちろんお母さんになっていく花もそうだ。態度、歩き方、服装(なぜか伊賀大介監修)、目線、表情、そして考え方。

子どもは大きくなってくうちに、やがて親離れをし、独立してゆく存在だ。それは世代交代であり、過激に言えば親殺しであり、とは言いながらも先代の血を受け継ぐ重要なもの。親は基本的に子どもをコントロールしようとし、自分のアイデンティティの中で支配下に置こうとする。親というのは本来、力、知性、肉体、精神、ありとあらゆるモノを道徳的な価値観において正確に持っているべきだろう。ただし経済力や権力や名誉は盾にも矛にもなりうる。これらは人間しか持ち得ない危険な存在だし、本作では全く重要視されないし、僕もしない。(勿論ある程度人間社会で生活する上で必要ではあるけれど)貧乏でも立派なオトナになれるし、金持ちでもウンコ野郎は山ほどいるでしょ!

で、その強烈な親のパワーの礎を子どもにしっかりと伝承し、これらを、子どもが受け入れるか否かを選択して、ようやく「親」という存在が浮かび上がる。それには確固とした強い「親」という存在があって初めて生きてくる。

話はそれたが「おおかみこども」ではそれが明確に示される。花は、ただの大学生の少女から恋をして女になり、妊娠をして母になる。そしてたくましく二人の子どもと生きていき、親として大人としてある程度まで成熟する。その結果として花は二人の子どもにアイデンティティを主張され、親殺しにあったのではないだろうか(実際には死にませんよ!)。特に雨に。しかしそれは名誉ある親殺しであり、進化なのだ、と。親も、明確な親殺しにあってようやく次のステップに移行できる。一時的に子どもの行動が理解不能になったり(雨の目が…)、性の目覚めに動揺するが、それは彼ら自身も悩み、苦しんでいる問題であり、彼ら自身も理解できないゾーンだ。

親も子もそのゾーンに差し掛かった時、どのような態度をとるか、それが重要だ。親は可愛い自分の子どもを手放す憂いや悲しみ、そして子どもに対する理想像の破壊を乗り越え、子どもとしてではなく、人間と人間の関係性へと認識が移行するのではないだろうか。

子どもは子どもでゾーンから脱却しながら、自分を守ってくれる絶対的正義な「親」から、間違いも併せ持つ「人間」として接していくことになる。そして自分が子どもを産み同じゾーンに入った時、さらに成長するのだ。というか人生はずっと成長なんだったね!

ここで、この話に雨と雪という二人の子どもがいることが、ストーリーの間口をとても広いものにしている。二人登場させることでオオカミとして生きるか、人間として生きるか、 という2つの問いにうまく応えることが出来るからだ。

 

で、結局花はどういう態度なのか、それは本編を観て確認していただきたい。

 

しかし宮崎駿なら雨と雪の役割を逆にしたかもな〜、なんて邪推…笑。宮崎監督は世界を母性で構築し、男性的父親的存在は女に比べて弱っちい儚いものにしてしまうしなぁ。それが現代社会でのリアルとかそういうレベルじゃなく、監督の強烈な思想によって。…どうも僕は宮崎駿信者(自分で言っちゃうけど)なもので、ついついアニメを見ると比べてしまう。

 

 

 

最後に余談。(ただ今からハイパーネタバレ大会です!!)

 

花という名前は春を象徴し、春は万物の目覚めの大地でありギリシャ神話で言うガイア(地母神)である。ギリシャ神話でガイアはカオス状態にあった宇宙から全く一人で(!)子ども=天の神ウーラノス、海の神ポントス、暗黒の神エレボス、愛の神エロスを産んだとされる。この「おおかみこども」でも、花を妊娠させた彼(なんと名無し!)は異形のものであり、更に死んでしまい、死体も闇に葬られる。実質花は一人で雨と雪を育てる事になる。そう、ともすると彼ははじめから「無」であり、告白シーンの夜空が象徴するような宇宙、そしてそれはカオスだったのではないだろうか…。

そして花は都会から田舎へ引越し、なんと大地を耕し始めるのだ。途中、花がご近所さんに畑でとれた作物を配るシーンがあるが、ご近所さんは、みんな山の動物に荒らされ作物が穫れなかった。しかし花の畑は恐らく、オオカミパワー全開の幼い雪によって守られていたようだ。

ストーリーが進むにつれ雪はどちらかと言えば花に寄り添っていく。そうした態度はこのシーンに現れていたようだ。しかし雪は雪とて、思いの通じる男と出会い、女へと変貌する前触れでおわる。恋や愛に触れた雪はまさしくエロス神!細田監督自身も週プレのインタビュー「宮崎駿になりたくてアニメをやってるわけじゃない!」で畑をエロスの場として捉えており、それを死守する雪の動機づけは強ち間違いではない。

更に雨は雨で、あのオオカミ男の彼と同じ服装に近づき、大雨の中、花のことを救う。花はこの時夢のなかで彼と再会するが、それは言ってみれば現実では雨であり、よもやこの夢の間に雨とインセスト・タブー(近親相姦)してしまったと考えられはしないだろうか。雨は結局、山の守護神的ポジションに付くことを選んだ。事実、ギリシャ神話でガイアは我が子のウラーヌスと親子結婚している。その後ウラーヌスは天界の王となる。天界の王…山の守護神…雨はウラーヌス…!?

 

さて、浅知恵で適当に書いてみました笑。映画っていろんな見方ができるな〜。

 

時をかける少女からの細田監督作品は全て見てますが、全体的に風景などに情念を重ねて来るスタイルだと思ってるけど、次はどんな作品で来るか楽しみです!監督はビクトル・エリセエドワード・ヤンなどに影響を受けているようなのでそれも納得かな。

 

今回も長い投稿になった〜。

 

 

 

 



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