「華麗なるギャツビー」〜音と映像の”イリュージョン”が本当に意味するもの〜

「ロミオ+ジュリエット」、「ムーラン・ルージュ」などでお馴染みのバズ・ラーマン監督最新作「華麗なるギャツビー」を観てきました。

 

F・スコット・フィッツジェラルドが1925年に発表した小説『グレート・ギャツビー』が原作。
1922年のアメリカ。証券マンのニック・キャラウェイ(トビー・ワグワイア)は、ニューヨーク郊外の高級住宅地ウェスト・エッグへと引っ越してくる。隣の大邸宅に住んでいる謎の人物はジェイ・ギャツビー(レオナルド・ディカプリオ)。ニックは彼と親交を深めるうち、ギャツビーが胸に秘めていたある野望を知ることになる。
ギャツビーは対岸に住むデイジー(キャリー・マリガン)と元恋人であり、彼女と再会し、結婚することを望んでいたのだが、デイジーは富豪のトム・ブキャナン(ジョエル・エドガートン)と既に結婚していたのだったが…というストーリー。

豪華絢爛、ノリノリの音楽、超スピード感のある演出、そしてしっとりしたシーンとの対比など、バズ・ラーマンらしさ全開の映画でした。これは劇場で観ることを強くおすすめ。
さて、内容については自分なりに書きたいことが色々あるので、部分部分に分けようと思います。

ギャツビー

・ストーリー(シナリオ)
前半から中盤にかけてはかなりアップテンポで、ファンキーに映画は進みます。小説にわりと忠実なようで、ギャツビーが現れるまで結構引っ張りますが、現れたギャツビー(ディカプリオ)の満面の笑みと後ろで打ち上がる花火に、僕は大爆笑しそうになりましたが、それは劇場では僕だけだったようです…笑。いや、あれは絶対に笑かしに来てるはず!!
後半シリアスになってからの、人間性を語るエモーショナルな畳み掛けが結構あと引く悲しさで、前半との対比が効いています。ギャツビーとデイジーが、ニックの家で会うシーンなどは、とてもいいアイデアにあふれていますが、なんとほぼそれも原作どおり。僕は映画を観てから本を読んだので、容易に原作通りというイメージが湧きますが、しかし、実際小説という文字から、うまく映像に、その逢瀬の雰囲気を表現できるかと言うと、それは簡単ではないと思いました。なにせ意識としては、ほとんどの読者の想像を超える創造的演出を求められるわけですから。

・音楽
僕が感心したのがバズ・ラーマンの、時代を無視した音楽チョイスです。それはムーラン・ルージュとかでもそうでしたが、普通に考えて20世紀初頭のパーティーのシーンでヒップホップからクラブミュージックからガンガン流す演出家、なかなかいませんよ笑 だって存在しないし!でもそれをこの100億もかかった映画でやるっていうのがバズ・ラーマンの信頼であり、オリジナリティであり、センスなんでしょうねw
ときおり入るLana del Rey”Young and Beautiful” の曲が沁みます。他にも楽曲はJay Z、Beyonce、Will.I.Am、Gotye、Siaなど超有名アーティストの曲をバンバン使う。使いすぎて鬱陶しいという人もいることは受けあいだが、こういうエッジが効いた部分がこの映画の魅力でもあるし、批判されるということは熱烈にファンもできるということの証明です。演出は中途半端が一番良くない。
個人的に好きな音楽効果の入れ方をしていたのもツボでした。とある重低音が聞いた曲をパーティーシーンで流し、その裏の会話劇では聞こえてくる低音だけ残す、ていう感じ。ズチャズチャ騒がしい表と、ヅンヅン心臓に響く低音の裏が状況を対比させています。

・画に関して(VFX)
風や光、水、煙、空といったものに、芝居をさせてるレベルに作りこまれた空間は圧巻です。
しかも、その空間と布やガラスや鏡や木々と言ったマテリアルとのコラボレーション、それに伴う場面転換の妙は、鬱陶しいほどに見事です笑。大切なことなのでもう一度言います、鬱陶しいほどにです!
そして移動撮影がほとんどで、休みなくカットが切り替わリます。しかしそれがもたらしたのは俳優の芝居の断絶です。じっくりと見ることができないので、テンポに情緒が流されてしまっている部分も多かったように感じます。逆の見方をすれば、あのテンポでもラストの方とかは感情移入できるんじゃないでしょうか。それがすごい。
更にあらゆる所にVFXが使われていて、僕はどちらかと言うと、それも少しマイナスなイメージでした。なぜなら、どこか落ち着かないから。
ただの会話のシーンや、 落ち着いた幻想的なシーンもどことなく漂う違和感に集中出来ませんでした。背景の合成などだけでなく、霧や、水なども付け加えられているんですが、そこは しっかり現場で作らないとせっかくの芝居の雰囲気が台無しです。確かに画としては美しいのだけど、偽物感があっては何の効用もありません。整形美女的な違和感ですかね。黒澤明監督の「乱」を観た時の本物感は絶対にCGでは超えられないとすら思います。
まてよ、その本物感を、メタ的な意味で排除していたのだとしたら、これは一本取られた事になるかもですね。当時のニューヨークの喧騒と暴走と、ニックが思ったコレジャナイ感、偽物感のメタとして。瑞々しさや輝きの裏側として。ギャツビーがほんとうに欲しかった唯一の”物”は、物ではないのだから。


↑VFXのビフォーアフターが観られます。

 

・思ったこと、まとめ
映画「華麗なるギャツビー」。ラストにギャツビーは死んでしまい、ニックだけが彼のすべてを知る親友として残ります。葬式にはパーティーピープルや、仕事相手のマフィア、更には最愛のデイジーすら現れません。
英国の人類学者ロビン・ダンバーが定式化した「ダンバー数」という説があります。これは、人が維持できる人間関係の数の理論的上限は100~230人だとするものです。(WIREDにこれについての記事があります)
ダンバー数で言えば100人超は関係を維持できるようですが、逆に言えば実際、本当の親友というのは何人くらいなんでしょうか?相手のいいところも悪いところも全て受け入れた上で、時に辛辣なことを言い合ったり、時に誰にも言えない事を暴露できる親友です。しかもお互いにそう思っている。これが100人いる人はまずいないでしょう。友情というより、ほとんど、愛ですかね。
フェイスブックやツイッターなどのSNSはそういった人間関係そのもの、及び人間関係についてその人がどういう態度なのか、がとても良くわかります。ある種それを視覚化し顕在化するツールとしてはSNSは面白いですね。むかしの社交界のパーティーはいわばSNSのようなもの、だったのかもしれません。
「過去はやり直せない」というニックに、ギャツビーは自信満々に言います。「過去はやりなおせるさ」と。
しかしギャツビーは今、そして未来を生きようとしてニックという親友を獲得したのではないかな、そんなふうに思います。

 

 



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