「マーサ、あるいはマーシー・メイ」〜あのフルハウスのミシェルの妹、もう大人になってた!!洗脳とカルト、裏返せばそれが…現代?〜

ショーン・ダーキン監督・脚本。
主人公のマーサ(マーシー・メイ)を演じたエリザベス・オルセンはなんと、あのフルハウスのミシェルの妹!!これだけで僕は感動でした笑

映画は低予算ですが、各国で高く評価され、サンダンス映画祭、カンヌ国際映画祭のある視点部門、トロント国際映画祭で上映されています。日本でも単館公開だったようですが、DVDで観て、とても面白かったので感想を。(ネタバレします)

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ストーリー

アメリカ。とある農場から逃げ出すマーサ。マーサは唯一の肉親の姉ルーシーと、二年間消息を絶っていたのだったが、助けを求め再会。マーサは、ルーシーとその夫テッドがサマーバケーションで使っている別荘にやってくる。マーサはルーシーに何があったかを頑なに言わないが、実はマーサがいたのは男女が集団で農場にて共同生活を営む、ある種のカルト集団だった。ルーシーは久しぶりに会えたマーサを嬉しく思うのだが、マーサは共同生活の時の記憶と今が混ざり合っていき、徐々に奇妙な行動に出るのだった…。

このカルトについて説明しておくと、物質や資本主義的価値観に縛られない、血縁ではなく大きな愛で繋がった家族を一見目指しているようですが、フリーセックスや、男性支配的構造、教祖たるパトリックの強烈なマインドコントロールが支配しています。アル中や薬物依存、タバコ依存、売春などを経験した女性がターゲットにされ、農場だけでは実は稼げず、彼女らのもたらす金や、近所の家に強盗をし、カルトを維持しています。

 

巧みな対比的演出

さて、登場人物を大きく分けると、マーサ、姉のルーシー、ルーシーの夫のテッド、そしてカルトの人々です。マーサはカルト的思想や態度が抜けないが、違和感を感じて抜けだそうとしています。ルーシーは姉としてマーサを救いたいし養護します。テッドは資本主義社会で成功した人物で、端的に言えばカルトと真逆です。
彼らが交錯することで、この映画は、一見カルトの恐怖を強調しますが、実は、逆に
「カルトと我々のどこが違うのか?正解はどこなのか?」
ということを提示します。そしてカットや演出もとても比喩的にそれを示していきます。
では細かく見て行きたいと思います。

冒頭、カルトの中で男性らの食事シーンがあります。食卓には男性だけ。終わると外で待っていた女性らに交代。なにか状況がおかしい雰囲気です。
その後マーサは何事も告げずに農場を去ります。姉に電話をするカットでは、公衆電話から電話するマーサの後ろにはアメリカ国旗が風に揺れています。
ルーシーの家に来たマーサ。ルーシーたちはマーサにプロテインバーを渡したり、謎の白い薬(精神安定剤のようなもの?)を幾度か飲ませます。そしてマーサは家を見て言います「この家広すぎない?」ルーシーは「週末にパーティーをするから広すぎないわ」と言います。
ここまでで結構風刺的であることが伺えるのではないでしょうか。
少しシナリオ的な話になりますが、映画が始まり30分ほどでマーサがルーシーたちと打ち解けていきます。この辺りが第一ターニングポイントかと思います。そしてマーサがテッドと、ボートで缶ビールを飲むシーンが有りますが、この缶ビールがなぜかとても違和感があるものに見えます。普段の世界ならありきたりの缶ビールが、非常に俗物的です。マーサがこれを口にすることで別世界との融和を暗示しているように感じました。第一ターニングポイントでは、それまでのテーゼの世界からアンチテーゼの世界へ行く、一つのポイントです。この場合、カルトが支配していた世界から、一般世界への進入でしょうか。

少し話がずれますが、食べる、吐く、などの行為は映画ではしばしば暗喩としてつかわれます。宮崎駿の「千と千尋の神隠し」でも千尋の父と母は、屋台のご飯を食べてあっちの世界に馴染んでしまいます。カオナシは苦団子なるもので吐いたりと、取り込む、吐き出す、と言うのはその世界との関係性の表れです。皆さんが旅行に行って、海外の食べものが合う合わない、合わないと吐く、などは外国の文化を体が拒否するか馴染むか、について端的に教えてくれますよね。アレと同じだと思います。

さて話を戻します。そんなマーサも、ルーシー夫婦がセックスしている所に何の違和感もなく侵入することで、両者に強烈な溝を産んでしまいます。その後の食卓でのカット割りも、マーサ対ルーシーとテッドになり、決裂が強調されています。
ルーシーはマーサがまさかカルトにいたとは思わないので、元カレのDVを疑います。
更に物語が進み、マーサはルーシーのホームパーティに参加します。この時マーサは白いドレスを着させられるのですが、実はカルトにいた時に、教祖のパトリックとセックスしないといけない通過儀礼があります。その時着ている服が白いガウンです。ちなみにカルトでの女性たちの服装も普段は必ず白いトップスです。しかも共有です。なので、姉の白いドレスを着させられ(共有)、しかもパーティーという異性の目前にもさらされるこのマーサは、パトリックとセックスさせらた時の、性の捧げ物のような状況と同じ構造を取っています。
ちなみにカルトは1台の黒いSUVを所持していますが、テッドも同じような黒いSUVを所持しています。
カルトと、ルーシーらの生活には巧みに差異と共通点が作られ、観ている側にどちらに対する共感も生ませないように、誤解すらさせるようにしているようです。
さて、マーサはルーシーたちと決裂したストレスで、テッドのSUVをぶち壊すシーンがあり、その後カルトに電話してしまいます。しかしやはり電話を切ります。マーサは世俗的な姉達側にも、カルト側にも居場所が見いだせません。
その後マーサは夢でカルトで起こった殺人事件を思い出します。それがマーサがカルトから逃げた原因であろうと思われます。第二ターニングポイントがここではないかと思われます。カルトでマーサはバスルームで思い悩みますが、その時は黒い服を着ています。カルトとの決裂が表わされると同時に、ルーシー宅での白いドレスと対比されます。
結果混乱の極みに達したマーサを、ルーシーは病院に入れることにし、不穏なエンディングを迎えます。

 

世界が狭いのはカルトか、我々か。

教祖のパトリック
教祖のパトリック

この映画が投げかけているのはカルトという恐ろしさ、というだけではないでしょう。
消費的、物質的で人と人のつながりの薄くなってしまった生活にも疑問を投げかけます。
映像は全編を通して、あまり音のない静かな演出と、ゆっくりしたズームが多用され、しかも深度の浅いカットばかりです。(深度とは写真で言う所謂ボケの事です。)
カメラの人物にピントが来ているが、後ろはボケているカットばかりなんです。色味も抑えられ余計な所に目が行きません。
ということから僕が感じたのは、非常にパーソナルな、閉じられた世界を常に提示しており、それはカルトの閉じられた環境、マーサを始め、ルーシーやテッドも含めた固定した価値観を淡々と匂わせている、ということでした。
世界が資本主義で物質文明で、それがマスであるけれど、つまるところ形態を変えて、狭い世界に固定された価値観で我々は過ごしているのではないか?と思わせます。そう、
「カルトと我々のどこが違うのか?正解はどこなのか?」
という文脈です。
さて、映画全体についてはここまでです。

 

私見:最も自己中心な人間はルーシーだった!?

実は僕が最も注目した、違和感があったのは姉のルーシーです。では、それはなぜかを説明したいとおもいます。

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ルーシーは一見、マーサに対して非常に優しい人物として描かれます。勿論マーサをカルトから引き離したのも彼女ですし、ルーシーは、夫とのサマーバケーションを潰してでもマーサとの生活を選びました。
唯一の肉親としてマーサに出来るだけのことをしたいと願っています。マーサとルーシーはどうやら大学で離れたようで、マーサは小うるさい叔母のもとで暮らし、それが嫌で家を出たようです。ルーシーはその頃大学で一人暮らしをし、現在に至ります。
ルーシーはマーサに、自分のほうが良い境遇にいた事に罪悪感を持っているようです。こんな台詞があります。
「マーサのほうが賢かったから大学へ行くべきだったのよ」、「大学へ自分だけが行ったことをマーサに責められてるんじゃないかと思っている」とまで言い出します。それに対しマーサは、そんなことはないと言い続けているのに。
さらにルーシーはマーサの異変を、まずはDVがあったと疑い、その疑いを変えません。マーサは、ルーシーに、この場所(別荘)が電話したあの場所からどれくらいなのか聞いたりして、それなりに信号を発していますが、ルーシーは一向に深く掘らないし、気が付きません。ルーシーはマーサにピンクのワンピースを着せ、憎いほど似合うわよと言います。
そして映画の帰結としてルーシーは、夫を階段から突き飛ばして変なことを言い出したマーサを精神病院に入れることにします。

さあルーシーの内面が浮き彫りになってきました。

以上を踏まえて僕が思うに、ルーシーは決してマーサを救いたいわけではないのではないか、と感じました。
むしろルーシーは自分が救われたいのです。しかも本人がその恐ろしさに気がついていないからたちが悪い。奇行を繰り返すマーサをかばい続けますが、それは自己擁護がしたいという裏の欲望であって、相手を解かろうとすることとは違います。そしてそれは敏感なマーサにも伝わっていきます。ルーシーはマーサに頼っていいのよ、と言いますが、これは彼女自身が頼られることで自分の生きてきた道筋の肯定がしたいたいし、マーサに比べて自分だけいい暮らしをしてきた罪から開放されたいのです。所謂メサイアコンプレックスというやつかも知れません。wikiより端的に引用します。

 

メサイアというのは、一般的な日本語ではメシアと言われるもののことである。この心理が形成されるのは自分は不幸であるという感情を抑圧していたため、その反動として自分は幸せであるという強迫的な思いこみが発生するとされる。さらにこの状況が深まり、自分自身が人を助ける事で自分は幸せだと思い込もうとするとされる。

なぜこのような論理になるかと言えば、幸せな人は不幸な人を助けて当然という思い込みを自らに課す事で「自分は幸せである、なぜなら人を助けるような立場にいるから」という理論を構築できるためである。本来は人を援助するその源としてまず自らが充足した状況になることが必要となるのだが、この考えは原因と結果を逆転させており理論的には無論無理がある。

結局のところそういった動機による行動は自己満足であり、相手に対して必ずしも良い印象を与えない。また、相手がその援助に対し色々と言うと不機嫌になる事もある。しかも、その結果が必ずしも思い通りにならなかった場合、異常にそれにこだわったり逆に簡単に諦めてしまう事も特徴的である。このようなことは宗教などの勧誘にも見られる。

 

悲しいかな、劇中のルーシーの言動は、マーサに対してこのような背景を持って接しているように感じられました。結果として良い影響を与えないのです。

映画では本当の悪人、悪役は性質を変化させない、というキャラクター作りの基本があります。
ダイ・ハードやマトリックスなどハリウッドアクションの悪役はまさにそれです。死ぬまで、死んでも懲りません。
逆に悪側にいるんだけど最後は味方になる、中間的な悪役風キャラクターは、最後には自己の価値観を変化させて善に変わるものです。映画のドラえもんのジャイアンがわかりやすいですね笑 本当の敵は絶対にもっと悪いやつです。
そのような”型”を踏まえるとどうでしょうか、カルトの教祖のパトリックを当然として、実はルーシーもテッドも考えを最後まで変えません。オマケに理解不能のマーサを見放します。医者に連れて行くのは当然ですが、遅すぎる上に、医者に連れて行く原因は自分の手に負えなくなったから。これじゃ自己中心的で底が浅いと言わざるを得ません。
結局マーサの周りには、本当に救済する人はあらわれていなかったのです。それが先にも述べたこの映画が言いたいこと

「カルトと我々のどこが違うのか?正解はどこなのか?」

ということを掘り下げていると感じました。

ほとんどネタバレしてしいましたが、気になった方は是非観てみて下さい。



2件のコメント

  1. あの……古い記事に申し訳ありませんが、エリザベス・オルセンはミシェルではありません。ミシェルを演じた双子のオルセン姉妹のさらに下の妹です。

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