「アナと雪の女王」〜超絶的にすごいシナリオを再解釈してみた結果!〜

ようやく「アナと雪の女王」(以下アナ雪)を観てきたので、自分なりの見解を書いてみたいと思う。普段はディズニーアニメはあまり見ないけれど、よく考えたら昨年のシュガーラッシュも劇場で見ている。意外とディズニー好きかもしれない笑。ネタバレあり。

 

超絶的に計算されたシナリオと演出に絶句

まずこのアナ雪で思った事はシナリオの進化だ。他方でも語られているからあまり新鮮味のない内容だが。まず、これまでの安易な王子様、もしくは男性の介入が直接的問題解決になっていないと言う点。今回は観ての通り、姉妹の絆そのものが最終的な問題解決につながっている。
雪だるまのオラフがアナに愛とは何かを説いて、アナは自分にとっての最愛の人はクリストフではないか、という帰結にいたる。ちなみにオラフみたいな、いわゆるバカキャラがまっすぐ生きてるが故に真理を説くという流れは定番だ。いわばピエロなわけで。クリストフの相棒のトナカイのスヴェンもそう、動物も純真の体現だったりする。押井守が大好きなやつ笑。
そしてアナはクリストフのもとへ向かうが、ここで僕個人としては、おや?と感じていた。アナ、意外にすんなり受け入れたけど、主に愛があったのはクリストフからで、アナからではなかったんじゃないの?と。そんな僕個人のストーリーラインへの澱みは見事きちんと裏切られた。ギリギリまで観客をクリストフとアナのキスへミスリードさせ、最大限の期待を込めておいて、アナはエルサを救う方に向かう。本当にここは感動的だった。エルサの激情による嵐で視界を見えなくさせる演出、エルサの気持ちの変化とともに嵐も当然収まり、無音となる。心理変化と環境の変化と事件が見事一致する超絶演出だ。
一つ苦言を言うと、僕はアナのかかった氷の魔法を解かなければいけないシークエンスにおいて、王子のハンスがいきなりアホ面して自分は悪人だなどという件は、観客に説明的すぎて感心できなかった(せめてハンスと誰かが悪だくみを話しているのを聞いてしまって…みたいにしたら良かったのに?笑)。
そもそもヒロインが二人、それに対してハンスとクリストフが出てきた時点で、どう結ばれるのか序盤から気になっていた。ハンスが悪人である、とわかるまでは僕の中では結婚をしようと言ったアナとハンスではなく、なにかのきっかけでエルサとハンスが結ばれ、対してアナとクリストフが結ばれる展開かと勝手に予想していた。
フタを開けてみればそのどれでもなく、女性による女性自身の勝利、というかたちで終わった。
総じてシナリオのうまさ、それもミスリードを誘いながら、それを見事にいい意味で裏切って、先を読みたがる客よりも上に昇華させるパワーがすごすぎた。

 

エンディングが二度ある??

更に今回のシナリオと演出で面白いなと思ったのは、エルサが「Let it go」を歌うくだりで、物語が一旦の解決をみせ、カタルシスが一度最大限まで膨らみ、本来ならこれで終わってもおかしくないレベルに演出されていた事だった。これまでの王道的な追放者への演出ならば、エルサは人間界を追われひっそりと悲しみに浸りながら城の奥に消えるようになっていたかもしれない。例えば美女と野獣の王子のように。シュガーラッシュのラルフのように。しかしここで歌に合わせて大肯定していく。この生き方も決して間違いではない、そう言う現れが感じられた。

少し話は逸れるが、往々にして映画とは、抑圧からの解放、問題提起とその解決、足りない自分探し、といった事を基軸に物語が進む。それが人物と事件で同時に起る事がハリウッドのメジャー作品では多い(メジャーは簡単にいえばシネコンでやってるようなアクション映画やドラマ)。
例えばスターウォーズはルークのジェダイへの成長(あるいは子供から大人への成長、父親を超える事)が人物で、帝国を壊して共和国を作る事が事件だ。これを同時進行させ、事件解決がそのまま人物の成長の帰結をつくると、観客的にもとても気持ちよく映画が終わる。これをカタルシスがあるという。
恋愛ものでも同様で、タイタニックは盗人だが自由人のジャックが家柄に縛られたローズを解放し、引き換えにジャックは自己犠牲の愛を知ることが人物の成長であり、沈没事故からいかに生き残るかが事件だ。ジャックは死んでしまうが、ローズが生き残る事で観客は愛とはなにかを知り、同時にローズだけでも助かった事で事件解決の喜びを得る。
サスペンスで有名なセブンは七つの大罪をモチーフにした殺人事件がまさに事件で、ブラピ演じるミルズの刑事としての成長とも捉えられるが、相方の老齢の刑事サマセットの、退廃的な世界から希望を描く、という認識の変化もある。むしろ観客自身に、何も考えずに欲望をさらけ出して生きていていいのか?と言う事を考え直させるという我々への成長を促す帰結かもしれないが。

例えが長くなったが、エルサはそれまで隠れながら生きてきた人生に終止符を打ち、完全に自分を雪の女王と自己認識する事で、解放された自分らしさというアイデンティティで一応の終わりを見せる。これが人物の抑圧からの解放であり、幽閉から脱出するのが事件解決なのだ。
現代社会を生きる女性において、主に仕事に生きるか、主に家庭に生きるか、と言う問題は女性差別や育児と言った際の行政支援などの性質でいまだ根強い。
この瞬間のエルサは男性の陰もなく、氷の魔法と言う万能の能力、すなわち経済的精神的自立を意味し、一人でも生きていける力強いモチーフになった。料理とかできないだろうけど、魔法でお腹も減らないでしょとか勝手に解釈しておくが、実はそのリアリティのなさこそが、現実では痛い問題だったりする。が、この映画で言いたい事ではないので、省かれて当然。重箱の隅をつつくような映画批評があるが、シナリオで言える事は案外限られているから。
で、エルサは、一目惚れして結婚だどうだと言うアナと対照的。アナが原因で決別した二人の関係性からも明らかで、その点ではエルサこそが現代的な女性像としての新しさではないだろうか。したがってある意味でこれはエルサのような女性へのエンディングなのだ。一つだけいうと、優しさや明るさや奔放さを持ち合わせていながら、エルサのような生き方を描けなかったのか?というのはある。だってエルサが氷に象徴されるように冷たく美しいままだと、それまでのキャリアウーマンの世間的イメージとしてのままだとも思うし。まぁ実はこの両方を備える、という事が次なる本当のエンディングへのテーマなのだが…。

 

ダブルヒロインと言うが本当は一人の物語

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さて、完全に自由になったエルサ。しかし彼女は、同時に孤独感を背負ってしまうように描かれる。だが実はエルサは、自身が孤独であるとは、あの歌の後に一度も公言しておらず、どちらかと言えば感情的にはアナと観客の思い込みと言う一方通行だ。が、ここはエルサが国を雪で閉ざしたと言う別問題もあって、解決すべき事件が絡んでいるため、観客も疑問を持つ事はない。むしろ観客側は、一人でいる人間は孤独なものだ、救うべきものだ、という根本的な先入観を利用されている。
とはいえ実のところ、孤独感は描かれないだけで、エルサの心の問題は深刻だ。冒頭でアナを瀕死にした思い出があるが、あれはなかなかのトラウマである。幼少時のトラウマと言うのは人格形成に置いてはかなりの部分を占める事がある。ほんの些細な事でもだ。たとえば、友人にあなたはしゃべり過ぎと言われれば、あまり話さなくなったり、わがままと罵られれば逆に自分の欲求を通せなくなったりと、大人になってからもその影響は凄まじい。
エルサが孤独感を感じていないほど麻痺しているのは、それ自身が他者と関わるとロクな事がないというトラウマのもたらしたものであり、トラウマと距離を置く(人と会わない)と言う観点から見れば、孤独感を感じないのは永続的とも捉えられるが、自己解放の素晴らしさからの一時的な高揚感ともいえそうで、結果としてはアナの行動は間違いではないのかもしれない。エルサは自由と言うよりも、引きこもりになり、氷のように硬く心を閉ざしただけで、社会性からの逃避をしただけだからだ。
そう考えていくと、本質的に自由奔放で優しく明るいが少し間抜けで普通の少女のアナと、堅苦しく素直になれないけれど強烈な能力を持ったエルサ、今回はダブルヒロインと言われるが、実のところこの二人の性質両方を持った完璧な一人の人間像こそが、女性の、ひいては観客の求める人物だろうと思う。なので、このアナ雪はそれぞれに分裂した人格を統合し完璧になる、という映画だ。そしてそこにはクリストフやハンスは元々必要ない。そのように考えると自ずとあの終わりかたしか考えられない。そもそもアナに氷の魔法をかけたのはエルサであったし、自身でかけた魔法を、自身の愛で溶かすと言う、トラウマの視覚的表出と自己再生なのだ。それにあの二人は事件解決の後、それぞれ学んだ事といえば、姉妹の愛(言い換えると自己肯定感の獲得だが)を除けば、アナは男を見る目、エルサは明るい性格であり、これはアナとエルサの成長と言うよりも、人格交換にほかならない。よって二人のストーリーは、分裂した一人の人間の自己実現とも言える旅だったのだ。

 

圧倒的感動の後には何も残らない!?

しかして、アナはとても感動する素晴らしいストーリーに仕上がっている。誰かを思う愛、自己犠牲の愛って素晴らしい!である。
が、この感動の後に「おもしろかったー!」という観客に他に一体何が残るだろうか。圧倒的感動は我々に非日常の興奮を呼び覚ましてくれるが、そのあと、ではいかに自分の人生において自己犠牲的な愛や、本当に一人の人を愛する事の、その方法を考える人間がどれほどいるのか、と言う問題である。
カタルシスは映画の醍醐味だが、あまりにマスターピース(完璧)な映画は、啓発、啓蒙的な部分から観客を遠のかせ、我々を疑似体験のループへと誘うのである。本当は我々は日常にこそ人生があるのにも関わらず、その愛の疑似体験が強すぎて麻薬のようにそれを体験しに何度も映画を観てしまう。実情それで人生は何も変わらない。もちろんポジティブに生きる元気はもらえるが、即席の激励は即席の効果しかうまない。要はこのブログの前回のエントリー「闇のあとの光」と全く逆の性質である、受動的態度一辺倒になると言う事だ。それはいわば何も考えずに見れると言う意味で思考停止をもたらす。
映画の中くらい思考停止させてくれよ、という人情もあるけれど、美しいだけのものは刺のないバラと一緒である。すぐに忘れてしまいはしないだろうか…。

 

 



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