最近感動したWebCM3本集めてみました。2016年1月。

 

まずはこれ。
説明するとネタバレするので、まずは見てみてください!

※ここからは観る前に読まないでください。
商品やサービスがもたらす社会的価値をキチンと描けていて、尚且つウィットに飛んだオチがあるのっていいなと思います。
この「社会的価値」っていうのが近頃考えていることで、それがあることによってもっと豊かになるか?とか、より幸福な人生になるか?っていうのが表現できるCMを作りたいなと思っています。

そういや最近アマゾンが「対象エリアでのお買い物が1時間以内に届く、Amazon Prime Now」というのをはじめました。
配送オプションは、890円の1時間配送、および無料の2時間便。1時間配送は、朝6時から深夜0時までの間、注文確定から1時間以内に商品を受け取れます。
という凄いサービスなんです。確かにこれ、届けてもらう方は、場合によっては凄く助かるサービスですが、なんせ1時間ですよ!
注文来てから商品見つけて梱包して、車に乗っけるまでが10分とか?あと50分とかで渋滞にハマれば大変です。もう担当している人はひっきりなしに時間に追われるわけで、考えただけでも正直ちょっと怖いですね。
人間的にはとてもプレッシャーやストレスの大きな仕事なんじゃないかと思うんですが、逆にこういう仕事こそロボット化していくようなたぐいのサービスなんじゃないかと思うんです。アマゾン自身もドローン配達を進めていますが、まさしく30年後には、人工知能と、ロボットやドローン技術で世界は一変しているのかもしれないなと思います。

 

■次はコチラです。

サイボウズのWebCMです。
公開は2014年です。

とにかくよく練られたストーリー。そのシンプルさと相まって西田尚美さんの素晴らしい演技!
3回観て3回泣きました。
僕もよくWebCMで感動系というのを考えることがあるんですが、ん〜やっぱり難しいです。
WebCMがテレビと違って時間無制限だからといって、ダラダラと面白くないドラマを見せても意味がありません。
長いことは自体は決して悪いことではないけど、やはり相応の工夫が必要ですよね。
たま〜にYouTubeのTruwView(観たい動画の前に流れる、5秒間でスキップできます的なCMです)で、とてもじゃないけどテンポ感が悪い感動系?CMが流れます。
人を感動させるのは、視聴者にその画面に現れている画以上に、感情を想起させられるかどうか、なのかなと思います。
例えばただの知らないボクサーの試合よりも、勝たなければ引退と決めている中年ボクサーと、その中年ボクサーに育てられた彼を尊敬する弟子の新人天才ボクサーの試合の方が、感動するのではないでしょうか。
そのパンチ一つ一つが意味を帯びます。
画面で起きていることが同じでも、観ている側は、想像力によって心に見えてくる世界が違ってくるじゃないのかなって思います。
などと書いているうちに、自分でも少し感動という概念について納得しました。

 

■はい、それを踏まえて、最後はコチラです。

P&Gの企業CMです。
4回観て5回泣きました。
いや〜ずるいっすね〜。(褒めてます)
序盤の、一見あまり意味のなさそうなカットたちが、あの雪上を飛び越えてくる選手に変わった時の…
WebCMなんて飛ばされちゃうから、と言って短くし過ぎたらそれこそ台無しだったでしょう。
作品と視聴者をある程度信じて、クリエイティブを作ることも大切なのかなと思います。
CMを飛ばす人よりも飛ばさず最後まで見てくれた人と、深く繋がるようなことは、簡単には数字に現れないから余計にそう思います。


「アナと雪の女王」〜超絶的にすごいシナリオを再解釈してみた結果!〜

ようやく「アナと雪の女王」(以下アナ雪)を観てきたので、自分なりの見解を書いてみたいと思う。普段はディズニーアニメはあまり見ないけれど、よく考えたら昨年のシュガーラッシュも劇場で見ている。意外とディズニー好きかもしれない笑。ネタバレあり。

 

超絶的に計算されたシナリオと演出に絶句

まずこのアナ雪で思った事はシナリオの進化だ。他方でも語られているからあまり新鮮味のない内容だが。まず、これまでの安易な王子様、もしくは男性の介入が直接的問題解決になっていないと言う点。今回は観ての通り、姉妹の絆そのものが最終的な問題解決につながっている。
雪だるまのオラフがアナに愛とは何かを説いて、アナは自分にとっての最愛の人はクリストフではないか、という帰結にいたる。ちなみにオラフみたいな、いわゆるバカキャラがまっすぐ生きてるが故に真理を説くという流れは定番だ。いわばピエロなわけで。クリストフの相棒のトナカイのスヴェンもそう、動物も純真の体現だったりする。押井守が大好きなやつ笑。
そしてアナはクリストフのもとへ向かうが、ここで僕個人としては、おや?と感じていた。アナ、意外にすんなり受け入れたけど、主に愛があったのはクリストフからで、アナからではなかったんじゃないの?と。そんな僕個人のストーリーラインへの澱みは見事きちんと裏切られた。ギリギリまで観客をクリストフとアナのキスへミスリードさせ、最大限の期待を込めておいて、アナはエルサを救う方に向かう。本当にここは感動的だった。エルサの激情による嵐で視界を見えなくさせる演出、エルサの気持ちの変化とともに嵐も当然収まり、無音となる。心理変化と環境の変化と事件が見事一致する超絶演出だ。
一つ苦言を言うと、僕はアナのかかった氷の魔法を解かなければいけないシークエンスにおいて、王子のハンスがいきなりアホ面して自分は悪人だなどという件は、観客に説明的すぎて感心できなかった(せめてハンスと誰かが悪だくみを話しているのを聞いてしまって…みたいにしたら良かったのに?笑)。
そもそもヒロインが二人、それに対してハンスとクリストフが出てきた時点で、どう結ばれるのか序盤から気になっていた。ハンスが悪人である、とわかるまでは僕の中では結婚をしようと言ったアナとハンスではなく、なにかのきっかけでエルサとハンスが結ばれ、対してアナとクリストフが結ばれる展開かと勝手に予想していた。
フタを開けてみればそのどれでもなく、女性による女性自身の勝利、というかたちで終わった。
総じてシナリオのうまさ、それもミスリードを誘いながら、それを見事にいい意味で裏切って、先を読みたがる客よりも上に昇華させるパワーがすごすぎた。

 

エンディングが二度ある??

更に今回のシナリオと演出で面白いなと思ったのは、エルサが「Let it go」を歌うくだりで、物語が一旦の解決をみせ、カタルシスが一度最大限まで膨らみ、本来ならこれで終わってもおかしくないレベルに演出されていた事だった。これまでの王道的な追放者への演出ならば、エルサは人間界を追われひっそりと悲しみに浸りながら城の奥に消えるようになっていたかもしれない。例えば美女と野獣の王子のように。シュガーラッシュのラルフのように。しかしここで歌に合わせて大肯定していく。この生き方も決して間違いではない、そう言う現れが感じられた。

少し話は逸れるが、往々にして映画とは、抑圧からの解放、問題提起とその解決、足りない自分探し、といった事を基軸に物語が進む。それが人物と事件で同時に起る事がハリウッドのメジャー作品では多い(メジャーは簡単にいえばシネコンでやってるようなアクション映画やドラマ)。
例えばスターウォーズはルークのジェダイへの成長(あるいは子供から大人への成長、父親を超える事)が人物で、帝国を壊して共和国を作る事が事件だ。これを同時進行させ、事件解決がそのまま人物の成長の帰結をつくると、観客的にもとても気持ちよく映画が終わる。これをカタルシスがあるという。
恋愛ものでも同様で、タイタニックは盗人だが自由人のジャックが家柄に縛られたローズを解放し、引き換えにジャックは自己犠牲の愛を知ることが人物の成長であり、沈没事故からいかに生き残るかが事件だ。ジャックは死んでしまうが、ローズが生き残る事で観客は愛とはなにかを知り、同時にローズだけでも助かった事で事件解決の喜びを得る。
サスペンスで有名なセブンは七つの大罪をモチーフにした殺人事件がまさに事件で、ブラピ演じるミルズの刑事としての成長とも捉えられるが、相方の老齢の刑事サマセットの、退廃的な世界から希望を描く、という認識の変化もある。むしろ観客自身に、何も考えずに欲望をさらけ出して生きていていいのか?と言う事を考え直させるという我々への成長を促す帰結かもしれないが。

例えが長くなったが、エルサはそれまで隠れながら生きてきた人生に終止符を打ち、完全に自分を雪の女王と自己認識する事で、解放された自分らしさというアイデンティティで一応の終わりを見せる。これが人物の抑圧からの解放であり、幽閉から脱出するのが事件解決なのだ。
現代社会を生きる女性において、主に仕事に生きるか、主に家庭に生きるか、と言う問題は女性差別や育児と言った際の行政支援などの性質でいまだ根強い。
この瞬間のエルサは男性の陰もなく、氷の魔法と言う万能の能力、すなわち経済的精神的自立を意味し、一人でも生きていける力強いモチーフになった。料理とかできないだろうけど、魔法でお腹も減らないでしょとか勝手に解釈しておくが、実はそのリアリティのなさこそが、現実では痛い問題だったりする。が、この映画で言いたい事ではないので、省かれて当然。重箱の隅をつつくような映画批評があるが、シナリオで言える事は案外限られているから。
で、エルサは、一目惚れして結婚だどうだと言うアナと対照的。アナが原因で決別した二人の関係性からも明らかで、その点ではエルサこそが現代的な女性像としての新しさではないだろうか。したがってある意味でこれはエルサのような女性へのエンディングなのだ。一つだけいうと、優しさや明るさや奔放さを持ち合わせていながら、エルサのような生き方を描けなかったのか?というのはある。だってエルサが氷に象徴されるように冷たく美しいままだと、それまでのキャリアウーマンの世間的イメージとしてのままだとも思うし。まぁ実はこの両方を備える、という事が次なる本当のエンディングへのテーマなのだが…。

 

ダブルヒロインと言うが本当は一人の物語

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さて、完全に自由になったエルサ。しかし彼女は、同時に孤独感を背負ってしまうように描かれる。だが実はエルサは、自身が孤独であるとは、あの歌の後に一度も公言しておらず、どちらかと言えば感情的にはアナと観客の思い込みと言う一方通行だ。が、ここはエルサが国を雪で閉ざしたと言う別問題もあって、解決すべき事件が絡んでいるため、観客も疑問を持つ事はない。むしろ観客側は、一人でいる人間は孤独なものだ、救うべきものだ、という根本的な先入観を利用されている。
とはいえ実のところ、孤独感は描かれないだけで、エルサの心の問題は深刻だ。冒頭でアナを瀕死にした思い出があるが、あれはなかなかのトラウマである。幼少時のトラウマと言うのは人格形成に置いてはかなりの部分を占める事がある。ほんの些細な事でもだ。たとえば、友人にあなたはしゃべり過ぎと言われれば、あまり話さなくなったり、わがままと罵られれば逆に自分の欲求を通せなくなったりと、大人になってからもその影響は凄まじい。
エルサが孤独感を感じていないほど麻痺しているのは、それ自身が他者と関わるとロクな事がないというトラウマのもたらしたものであり、トラウマと距離を置く(人と会わない)と言う観点から見れば、孤独感を感じないのは永続的とも捉えられるが、自己解放の素晴らしさからの一時的な高揚感ともいえそうで、結果としてはアナの行動は間違いではないのかもしれない。エルサは自由と言うよりも、引きこもりになり、氷のように硬く心を閉ざしただけで、社会性からの逃避をしただけだからだ。
そう考えていくと、本質的に自由奔放で優しく明るいが少し間抜けで普通の少女のアナと、堅苦しく素直になれないけれど強烈な能力を持ったエルサ、今回はダブルヒロインと言われるが、実のところこの二人の性質両方を持った完璧な一人の人間像こそが、女性の、ひいては観客の求める人物だろうと思う。なので、このアナ雪はそれぞれに分裂した人格を統合し完璧になる、という映画だ。そしてそこにはクリストフやハンスは元々必要ない。そのように考えると自ずとあの終わりかたしか考えられない。そもそもアナに氷の魔法をかけたのはエルサであったし、自身でかけた魔法を、自身の愛で溶かすと言う、トラウマの視覚的表出と自己再生なのだ。それにあの二人は事件解決の後、それぞれ学んだ事といえば、姉妹の愛(言い換えると自己肯定感の獲得だが)を除けば、アナは男を見る目、エルサは明るい性格であり、これはアナとエルサの成長と言うよりも、人格交換にほかならない。よって二人のストーリーは、分裂した一人の人間の自己実現とも言える旅だったのだ。

 

圧倒的感動の後には何も残らない!?

しかして、アナはとても感動する素晴らしいストーリーに仕上がっている。誰かを思う愛、自己犠牲の愛って素晴らしい!である。
が、この感動の後に「おもしろかったー!」という観客に他に一体何が残るだろうか。圧倒的感動は我々に非日常の興奮を呼び覚ましてくれるが、そのあと、ではいかに自分の人生において自己犠牲的な愛や、本当に一人の人を愛する事の、その方法を考える人間がどれほどいるのか、と言う問題である。
カタルシスは映画の醍醐味だが、あまりにマスターピース(完璧)な映画は、啓発、啓蒙的な部分から観客を遠のかせ、我々を疑似体験のループへと誘うのである。本当は我々は日常にこそ人生があるのにも関わらず、その愛の疑似体験が強すぎて麻薬のようにそれを体験しに何度も映画を観てしまう。実情それで人生は何も変わらない。もちろんポジティブに生きる元気はもらえるが、即席の激励は即席の効果しかうまない。要はこのブログの前回のエントリー「闇のあとの光」と全く逆の性質である、受動的態度一辺倒になると言う事だ。それはいわば何も考えずに見れると言う意味で思考停止をもたらす。
映画の中くらい思考停止させてくれよ、という人情もあるけれど、美しいだけのものは刺のないバラと一緒である。すぐに忘れてしまいはしないだろうか…。

 

 


「闇のあとの光」〜映画は映画館を出るまでが映画じゃなく、棺桶に入るまでが映画です〜

カルロス・レイガダス監督「闇のあとの光」(原題:POST TENEBRAS LUX)を渋谷のユーロスペースで観てきた。初めてこの監督の名前を聞いたが、それもそのはず、日本には初上陸。カンヌでは過去に審査員賞などを受賞しており、今作ではカンヌ2012で監督賞を受賞した。監督はメキシコ出身で現在42歳。
ストーリーはと言うと、二人の子どもがいるある一家に、赤い擬人化された犬のような悪魔のようなものが訪れる。それと関わってか、平和に暮らす一家と、その周囲の人々は徐々にある破綻へと向かっていく…というもの。
どうやら監督はカール・ドライヤーや、タルコフスキーなどに影響を受けたようだが、並び評される監督は「ファザーサン」や「太陽」などのアレクサンドル・ソクーロフ、「シンレッドライン」や「ツリーオブライフ」のテレンス・マリック、「ニーチェの馬」のタル・ベーラといった、知ってる人が聞くと「おお!」と思うか「絶対に観たくない」という監督勢である笑。
こう聞くと、本作は非常にポエティックで、わかりやすさよりも映画の美や芸術性を重んじたものなのは頷けた。本作は音や映像そのものが非常に示唆的であり、こちらが様々な補完をしなければ、圧倒的睡魔が襲うような作品であった。
しかし実際のところ、個人的な意見としては、メキシコの気候や文化もあってか、ソクーロフやタル・ベーラほどに陰鬱ではないし、テレンス・マリックほどキリスト教的、宗教的なメッセージが濃い訳ではなかったと思う。

 

 

まずは映像にたいする受動的な姿勢を捨てよ

闇のあとの光

はっきり言うと本作は、観る人に様々な解釈や深い思考を促す、能動的な姿勢を強く要求してくる作品である。僕はこの「映画にたいする能動的な姿勢」と言うのはとても大切なものだと思っていて、海外の人は知らないけれど、そもそも日本人は映画やテレビを含め、映像を見る事に対して受動的すぎると思っている。
それはどういう事かと言うと、本来映画が現代芸術に属すと考える場合、それは絵画や彫刻を見る感覚と同じように接するべき部分があるはずである。ほとんどの人は例えばピカソやダリの絵を見るとき、この絵はどういった意味があるのか?どういった感情を表現しているのか?どういった意図があるのか?などを考えて観ているはずである。しかしそれが映画になると、一転してストーリーを軸にして全てに正解や意味を求め、提供された説明をただただ受けて、それがわからなければ意味が分からなかった、つまらない、となりがちではないだろうか?
これは我々が、映像教育をほぼ全く受けないままに、幼い頃からテレビなどを視聴してきた、という経緯があり、見せられる映像の真偽を考えたり、多面的な解釈が可能なことを知らないままに育ってきたという歴史があるからだ。
が、本来はテレビのドキュメンタリーでもニュースでもバラエティでさえも、その見方に能動的な姿勢を持って臨むのが映像のリテラシーというものだと僕は考えている。

さて前置きが長くなったが、たとえば受動的な姿勢でこの映画を観た場合に、映画館を出て第一声で会話に出る言葉は「この映画、どういう意味だったの、わかる人教えて」である。これはもう間違いない。もちろん僕自身もエンドロール開始1秒でそう思ったし、未だにそう思ってはいる。
が、つまる所本作は、内容がどういう意味かは各々が考え、あわよくばそれを観た人と話したり討論し、いつまでも意味を問いつづけるべき映画である、と言う事だ。
イコールそれは一切の受動的な姿勢を捨て、能動的に映画を観よと言うことに他ならない。
なんにでも答えをほしがる人には耐えられないかもしれないし、映画は娯楽でしかない人には退屈かもしれないが、まずそのような映画が存在する、そのような見方もあると言う事を僕は強くアピールしておきたい。とはいえ、古くから映画自身が観客の受動的姿勢ばかりを要求してきた背景もあるし、どちらが正しい訳ではないけれど、例えば奈良の大仏を見て、ただのでかい仏像だと思うか、その存在に歴史や背景や仏教的意味、その場にいる観光客が何考えてるんだろうとか、匂いや温度を感じようとするか、まぁそんな違いなのかなと思う。

 

 

自然と人間存在の変化が垣間見える

闇のあとの光2
まぁ、上記に述べたような調子の映画なので、僕は勝手に思った事を述べたい。
冒頭、おむつも取れていない女の子が山あいの、しがないサッカーフィールドらしき所で、牛さん、牛さん、と言いながら犬と一緒に走り回っている。小さな少女の周りはハァハァ、ギャンギャンと犬たちが吠えたけり、牛や馬を牧羊犬のように追いつめている。サッカーフィールドの周囲は山に囲まれ、夕暮れ時の空には徐々に雷雲が立ちこめ、次第に暗くなって行く。そしてマジックアワー(太陽が沈んだあとで夜になる前の、一番美しいと言われている時間の事)の終わりとともに雷鳴が鳴り響き、稲光の中で少女はシルエットになり、やがて消えてそのシーンは終わる。
このシーンは非常に印象的で、少女のあどけない儚さと、周囲の獣たちの息づかいや躍動、周辺の山や空といった大自然の威圧感や猛威との対比が、恐怖感を助長する。僕は素直にそれを見ながら、なぜ人はこんな環境の中で犬に食われもせず、牛に殺されもせず、自然の中でいきていけるんだろうと思った。
そうしてその後、赤い悪魔が現れ、なんやかんやと一家に惨事があり、終焉へと向かう。そして一気に飛んでしまうが、ラストシーンである。
ラストはラグビーをする小学生くらいの少年たちが、オープニングと同じような緑の整えられたラグビーフィールドで、肉弾戦で戦っている。そしてチームメンバーが集まって円陣を組み、激励しあし叫ぶ。「俺たちはチームだ、俺たちが勝つ!」と。(うろ覚えで少し間違ってるかもしれないが)
さてこの二つのシーンで僕が象徴として受け取ったのは、自然界と人間界が離反とした歴史と、人間が自然を凌駕して生きて来た事の意味であった。
オープニングとラストで共通するのは、整ったフィールド、である。悪魔の登場するまでのオープニングは、我々人間が自然の驚異の中で抗いつつも開拓してきた動物としての人間であり、逆に言えばある種の壊れやすさもあった時代である。少女がそれを代弁し、音と映像の恐怖感がそれを助長する。フィールドは開拓した人間界であり、周囲はまだ自然の猛威に囲まれ、フィールドそのものも動物と混交をなすカオスであった。
しかしラストのフィールドでは、周囲に自然はなく、行われている事はラグビーと言う名の、争いである。そして個人と言う存在からチームという集団での闘争へと変わる。これこそが人間が既に自然界との争いが終焉を迎え、人間同士の争いへとシフトした事を意味しているのではないか?そう思えた。
とある海外のブログ(http://filmint.nu/?p=8494)ではラグビーとは家父長制の現れである、と解くものもある。しかるにオープニングの少女に見る、大いなる調和と母性と言う時代から、集団闘争と父性への変化、とも見る事ができはしまいか?ということである。

オープニングのあと、赤い悪魔は謎の工具箱を持ってのっそりと家の中に入ってくる。その工具箱がなんであるかは映画では語られないし、監督もインタビューで「てめぇで考えろ」という始末だ。
では工具、ひいては道具とは何か?であるが、基本的な概念として、道具とは作業を効率的に行なう補助端末である。効率的に何かを生み出す事もできる反面、武器と言った破壊するための道具も同時に進化してきた。
キリスト教では赤いリンゴがアダムとイブに知恵をもたらしたように、赤い悪魔は我々に道具と言う端末をもたらし、変化させた一つのキーだったのではないか?と考えるのもおもしろい。

 

 

レイガダス監督が実際そういったことを言いたいかどうかは、僕としても正直知るか、である。なにせ映像には、作り手の意図はあるにしろ、解釈の自由の解放された、無限の空間が広がっているからだ。
映画の中では他にも性に関する事や、貧困に関する事、欲望やメキシコで社会について示唆する部分がある。語り出せばキリがないが、それは自分の人生について語り出せば、いくつもの視点があるように、この作品についても一人で、あるいは誰かと解釈を勝手に語れば良いと思う。そしてその過程で自分の人生についての良き考えや、生き方が浮かぶかもしれない。

「映画は映画館を出るまでが映画じゃなく、棺桶に入るまでが映画です」

なんて思えてきたりもする。

 

 

 

監督のインタビューを和訳してらっしゃるブログがあったのでこちらもどうぞ。
http://planeta-cinema.at.webry.info/201210/article_4.html

 

 


「罪の手ざわり」 〜タワーマンションやルイヴィトンやマセラティを横目にあなたは死ねるか?〜

 

 

「長江哀歌」でベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、一躍名監督になった中国のジャ・ジャンクー監督最新作「罪の手ざわり」を渋谷Bunkamuraル・シネマで観てきた。今作品でカンヌでは脚本賞を受賞。この話は中国で実際にあった殺人事件などをベースにしたもの。
一人目は地方の小さな村の炭坑の利益をうまく独占した金持ちに、正義とは何か、と恨みを持つ炭坑労働者。
二人目は妻子を残して出稼ぎに行き、行った先で強盗殺人を繰り返す寡黙な男。
三人目は遠距離でどこかのお金持ちの男と不倫をしつつ、風俗サウナで働く女。
四人目は工場で働いていたが従業員に怪我をさせたと言いがかりをつけられ、ナイトクラブでウェイターをはじめる青年だ。
この四人が少しづつ重なりながらも、それぞれをパートが分かれて話は進んでいく。

 

 

・一貫して描かれてきた、埒のあかない人々。埒のあかない場所。

罪の手ざわり

ジャ・ジャンクーはこれまでの「青の稲妻」や「プラットホーム」「世界」「四川のうた」など、どの作品でも一貫して埒のあかない、残された人々を描いてきた。残された人々というのは急激な経済成長の波に乗るでもなく、かといって躍起になって金を稼ぎたいとも思えない、方法すらわからない、そんな人々だ。
大きな川の対岸にビルが林立するのを眺め、毎夜シャンパンと美人のホステスを侍らせるオヤジ共を見つめながら、じゃどうすればあのビルに住めるのか、どうすればそんな生活になれるのか、そんな事がさっぱりわからないのだ。
人を騙せず、強かになりきれず、悪に染まりきれず、それなのに社会の光には触れる事さえできずに、闇にだけは翻弄されていく人々。

ジャ・ジャンクーはそんな彼ら彼女らと共に、その背景の街そのものもあたかも主人公のように活写していく。街や村の風景そのものが、ストーリーラインと同じレベルで観るものに中国の現在を浮かび上がらせていくのだ。げんなりするような雪と土ぼこりばかりの炭坑の村。大都市と河を挟んで、冴えない畑しかない小汚い民家。安っぽいネオンの風俗サウナと岩肌が切り立ちトラックの行き交う道。高級クラブにはコスプレをさせられた美女たちと失笑ものの見せ物。喉元からえづいてしまうようなチープさだ。

しかしこれほどまでに、「そのもの」をそのもの以上に映すジャ・ジャンクーの映画は、主人公たちへの優しさと愛に満ちている。登場する彼らはもちろん犯罪者だが、彼らは自分にとっての愛や正義を知るからこそ、その上で殺人はどうしようもなさの果てに現れる。そして彼らに共感した観客は、盛大に殺される社会的成功者の姿を見て、どこかスカっとしてしまうのだった。

 

 

・我々が無視した事を可視化するジャ・ジャンクー

罪の手ざわり

先天的なサイコパスでない限り、人は普通の不自由のない生活や、幸せの中では決して殺人や自殺を自分が行う事を想像できない。しかし犯罪と言うパラレルワールドは、実は常に世界に平行に走っていて、我々はそれに気がつかない、もしくは無視しているというのが本当の世界のリアルだ。

我々は無視という究極の自己防御手段で生きながらえている。
無視する事で幸せでいることできる。スーパーに並んだ新鮮な肉や魚はどこから来たのか、毎週捨てる可燃ゴミの行方、駅で酔いつぶれたサラリーマン、アダルトビデオの女優の顛末、隣のクラスのイジメ、誰かの自殺、テレビの向こうの強姦、殺人、被災、戦争、それら全てにコミットしていては自由など手に入らないからだ。便利で自由である生き方の裏側には、必ずその顛末を処理する誰かがいて、その処理を生活にしている誰かがいるのだ。これがこの世界の紛れもない構造なのだ。(その処理が不幸であるとは限らないが)

そんな世界の中で、我々が忘れた人々の一端をこの映画は掬い上げ、なぜやったか?ということを滔々と見せていく。理由なき殺人は突き詰めれば存在しない。理由もなくスーパーにバナナが届く訳がないのと同じように。
でも我々は、いわんやメディアも、事件を最初から最後まで見届けはしない。その事件の一つ一つの原因を探って、なぜ起きたか?ではどうやって再発を防ぐか?更には未来に起こりうる不幸をどう食い止めるか?といった問いをほとんどの人は議論にはしたくないのだ。なぜなら議論しても自分が不幸になるだけだからだ。テレビやスマホから放り出されたニュースの断片を日々眺め、その時だけ興奮する。まるでそれは予告篇だけで楽しむ映画のようなものだ。それに加えて、時に我々は不幸を知る事で幸福をかみしめる。本来、誰かの不幸は、生きのびる我々に、これから先、更によりよく生きるためにはどうすればいいか考えろ、というメッセージが伴っていたはずなのに、今やエンターテイメントの一端を担う。

ジャ・ジャンクーは、そんなただの無視される毎日の不幸なニュースを、今一度可視化する。その作業は、リアルで起きた不幸がニュースによってエンターテイメントと化したものを、再度フィクションを借りてリアルに戻すと言う、面倒な行程で成り立っているのだ。それはまるで、子孫繁栄のために進化したくせに自殺するようになった、動物よりもある意味では馬鹿な人間に対するプロパガンダのように。

 

 

・ニュ—スや情報というエンターテインメントの果てに

僕は24歳の時ブラジルへ行った。「シティオブゴッド」というブラジルのスラムを舞台にしたギャング映画が好きすぎて監督に会いにいったのだ。
現地に着いて、仲良くなったブラジル人の大学生の男の子と、こんな話をした。

僕「僕はシティオブゴッドという映画が好きでブラジルに来たんだけど、知ってる?」

学生「ああ、もちろん知ってるよ」

僕「あの映画、観た?」

学生「観てない…」

僕「どうして? あの映画めちゃくちゃ面白いよ!」

学生「…外国人がいう面白いブラジル映画は、貧困やスラムや銃社会の話ばかりだ。僕はそんなもの観たくもない。もっと楽しくてハッピーになれる映画を観たいんだよ。あんなのわざわざ観に行かないよ…なにが楽しいのさ」

僕は彼に愚かな質問をしてしまったと思った。ブラジルのリアルな貧困やギャングの血なまぐさい抗争を目の当たりにしてきた彼に、所詮は映画をファンタジックな娯楽としてしか捉えていなかった自分が露呈して、自分自身に心底がっかりしたのだった。
手を差し伸べるつもりのない興味は、刃物と同じ匂いがするんだと。だからといって興味を持たない無視という行為が、結果としてナイフ以上の大きな爆弾になって頭上に降ってくる前に、僕らはさて、どこから手を付けようかと模索して生きていくしかないんだと思う。時折垣間見えるパラレルワールドにおびえながら。

 

 


「ウルフ・オブ・ウォール・ストリート」〜大金や美女なんていいやとか言ってる奴、お前は戦っているのか?〜

 

実在の元株式ブローカー、ジョーダン・ベルフォートの回想録『ウォール街狂乱日記 – 「狼」と呼ばれた私のヤバすぎる人生』(なんやこの邦題訳はw)を原作としたマーティン・スコセッシ監督の作品。レオナルド・ディカプリオが主役ベルフォートを演じている。

あらすじはと言うと、簡単にいえば男の成り上がり物語とその終焉である。しかもそれが約三時間。マーティン・スコセッシらしい、なんか感情移入から少し距離をおいたようなクールな演出だった。ディカプリオはこういうギラギラした役が最近はまってるね。ギャツビーとかね。
かなり会話が多く、テンポがいいかと言われるとあんまり良くなくて、ちょっとしんどいなって人もいるかもしれない。どこに向かおうとしてるのかイマイチわからず、なんとなく散漫な印象だった。しかしまぁWORK HARD PLAY HARD=よく遊びよく学べ、なんて言ったもので、とにかく実話ベースだということなので、その仕事と遊びの激しさたるや、想像を絶する物がある。金!酒!ドラッグ!女!なんでも来いや!だ。

世の中のほとんどの人は直接であれ間接であれ、何らかのモノを売る仕事に従事している。そこには営業という働きかけが必須であり、服、食べ物、音楽、不動産、エステサービス…様々なものがその対象である。
で、人はこうして他人にモノを売って稼いだ金でまたモノを買うのだが、その稼ぎを牛耳っているのはモノ売るシステムを作り上げた会社の社長であったりする。で、そういった金持ちが何に金を出すかというと、高級車やデカイ不動産、そして稼いだ金を更に増やすべく、株やなんかに投資するわけだ。株はいわば金の対価そのものかそれ以上の魅力を秘めている。
前置きが長くなったが、要は株を売る仕事(=株式ブローカー)は、直接金を交換しあうよりも更に高度に価値を交換する営業の役割を担っていることになる。営業の商材としてはトップクラスの価値を秘めていると言っても過言ではない。だからいつも金融業界はまさに金であふれ、激務だが給料もトップクラスなのだ。もちろんそのリスクも最大級であり、一発で倒産や、クビもあり得るシビアな一面もある。
しかし営業という仕事そのものは、ただ単に勉強できる的な賢さがあればいいという類のものでもなく、むしろ元ヤンキーがものすごいメンタルで成功することもあるし、東大出ててもコミュ障だったら全く役に立たないなんてこともある。だからこそ営業というのは面白いのであり、だからこそ嫌な人にとっては最悪なのだろう。

で、結局何がいいたいかというと、自ら金や成功を掴み取ろうとしている人にはこの映画は刺激的だろうってこと。野望が、夢がある人にとっても。
六本木なんかに行くと、おもいっきり仕事もして、おもいっきり金も使って、そして色んな女と過ごす、みたいなバブルか!って輩がまだまだいる。そういう世界をしかし問答無用に気味悪がってはいけない。与沢翼をキモがってはいけない。翼って名前が違和感、とかまぁ置いておこうよ。彼らは余程中途半端に金欲から逃げていない。女からも。言うなればそれは欲望から逃げていない、ということだ。

この世界には欲望からあえて逃げることで自分のプライドを保っている人間がどれほどいるだろうか!?
20万くらい稼いで、週末はゆっくり過ごして、それなりの彼女彼氏と、それなりに過ごすのも幸せじゃん、そんなふうに思っているのが真の偽りのない欲求なのか?
本当は月に100万稼いで、モデルみたいな長身でFカップのセックスのうまい女とか、清楚で賢い美女を彼女にして、リッツカールトンの最上階のバーで過ごしたり、麻布のタワーマンションに住んで毎晩会員制高級クラブで嬢を相手にしては持ち帰ったり、休みはクルージングしたり、ちょっとマカオや上海に出かけたり、値札のない寿司屋で腹いっぱい食べたり、アルマーニで大人買いしたり…

したいんじゃないのか?

できないからそんなことに興味が無いとか言ってるんじゃないか?

え?

どうなんだ?

できるのならやってみろ!!

そんな毎日を送ってから、つまらないと普段の生活に戻ればいいじゃないか!!

そうだろ!!

ダサいのはどっちなんだ!?

確かに世の中金だけでも女だけでも野望だけでもないけれど、敢えて逃げる必要もないんじゃない?ってね。なんかあんまり映画の感想になってないけれど、狼として生きるのか、更にはライオンになるのか、はたまた草食動物になるのか、幸せは単なる切り口のちがいかもしれない。波風のない凪を良しとするのか、大荒れの波乗りを楽しむのか…。


「オンリー・ゴッド」〜神かどうか紙一重のカラオケ新世界映画爆誕〜

 

2011年に話題をさらった「ドライブ」でタッグを組んだライアン・ゴズリングとニコラス・レフン監督の最新作。
タイでキックボクシングジムをやりながら裏ではマフィアとして過ごすジュリアン(ライアン・ゴズリング)。ジュリアンの兄が少女を強姦殺人したことで逆に少女の父親に殺される。しかしそれを仕向けたのは警部補のチャンという男。その兄が殺されたことを聞きつけてアメリカからやって来た気狂いオバサンは兄殺しのチャンを抹殺せよと組織に働きかけます。
そしてマフィア組織軍団がチャンを追い詰めていくはずが、実はチャンは尋常ならざる強さと正義感をもった人物で、結局ジュリアンはチャンと対決する事になるのだが…。

なんか色んな意味で変な映画でしたね。とりあえず僕としてはドライブから変わらぬ緊迫感ある演出、撮影、それから照明がめっちゃかっこよかったですね。照明が本当に稀に見るかっこよさ。陰影と色使いが雰囲気全開で、たまらないです。赤を基調にして煉獄をイメージしたらしいんですが、相当そういった視覚イメージにこだわり抜いて作ったなって思います。

話はっていうとなんか、チャンと言う、中々にじんわり動く無表情系オッサンが、因果応報、勧善懲悪、信賞必罰、一刀両断、一撃必殺、山菜蕎麦、みたいなんを掲げて、一人でジュリアン率いるマフィア軍団を追い詰めていくってだけなんです。
しかもチャンはひとり殺すとカラオケを熱唱するという謎行動を繰り広げ、観るものを圧倒します(観客どころか中の役者も含めて)。
僕はここを爆笑すればいいのか、真剣に見ればいいのか非常に迷いまして、ここをどちらに取るかで、この映画がすごいよマサルさんなのか北斗の拳なのかくらい変わってきます。
まぁ、すごいよマサルさんをある種のビューティフルドリーマー=終わらない学園祭を永遠に生きていたい青春群像劇、みたいな切なくも輝かしい漫画とみることもできますし、北斗の拳をいい歳した大人が北斗百裂拳とか南斗水鳥拳!とか人前で大声で叫んでカラダをちちくり合う、世紀末で頭おかしくなった痛ナルシスト漫画とみることも出来るので、結局は切り口って話になってくるとは思うんですが。
オンリーゴッドもまさにまじめに見てたら変なとこでふざけてくるし、ふざけそうなとこで真面目になっちゃうしみたいな、やっぱりユニークな映画だったことは間違いありません。

近年タイ映画といえばアピチャッポン監督のブンミおじさんの森とか観ましたが、なんかああいうちょいとスローなテンポ感で、ゆっくりとした時間が流れていながらも実は割とシリアスな裏側があったり、仏教観やアニミズム的な何かがあったりみたいな(まぁこれ東南〜東アジア映画全般に昔からあるノリですが)とこに、アメリカンなマッチョ思想だけがぶち込まれて、悪い意味で欠陥のないヒーローコミックと化した、少しお馬鹿映画になってんじゃないかとも思えたんですよね。
チャンがどっからどう見ても屋台でパッタイ作ってそうな普通のおっさんなのに、やっぱ尋常じゃない強さでもってジュリアン軍団をメッタ斬りにしていく、しかもカラオケ歌う、しかも悪を取り締まる警察側っていう、なんすかね、わかりますかねこの万能感?
いやね、本当になんでもないホームレスのオッサンなのに、実は鋼のボディで、誰かを助けるときだけ強くなれるんだけど、それをやるたびに寿命が減るとかそういうの普通だと思うんですけど、チャン、警察ですやん。お前が警察なったらもう世界平和が約束されたやん、みたいな。無敵すぎでしょ!っていう。お前のっそり美学にそって動く暇あったらタイにはびこる犯罪全部取り締まれよ!みたいなツッコミ入れたくなりましたね。

「チャンは神」監督がインタビューで語ってました。

で、ジュリアンはというと気狂いオカンを抱えたマザコン野郎で、イケメンでモテそうなくせに女の扱いがわからず、自身の価値観もイマイチつかめていません。美女を前にしてただオナニーさせたり、道端で服脱がすだけ脱がしてなんかショボンてなるとか、こいつたぶんEDです。

で、構造的に考えてオンリーゴッドは、母という余計な庇護から、チャンと言う父の導きによって自立した個へと旅立つ、それがジュリアン、みたいなことなのかなと。「チャンは神♡」って監督が言ってるくらいですから趣き、神話なんでしょうね。
でもこの神話の捉え方が東洋のアニミズムとか八百万の神みたいなのと違ってるから、なんか、ブルックスブラザーズのシャツのボタン掛け違えたみたいな感覚の映画なんでしょうかね。いっそヴィヴィアン・ウエストウッドの服みたいにボタン掛け違えること前提のデザインだったら良かったんでしょうけど。いや、この映画はヴィヴィアン・ウエストウッドが折角変形デザインした服をすげーしっかりした形に切り取っちゃった、ッて感じがふさわしいかもしれませんね。ヴィヴィアンをして、それはそれでかっこええやんっていいそうですけど。(もはや何の話かわからない)

で、総評すると結構面白いです。最期まで、え?ってなるのでワクワクして御覧ください。

 


「ビフォア・ミッドナイト」〜映画とこの世界が本当にひとつになった瞬間に立ち会える〜

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1995年の映画「ビフォア・サンライズ」で、アメリカの青年ジェシー(イーサン・ホーク)とフランス人女学生セリーヌ(ジュリー・デルピー)は偶然出会い、愛し合い、そして別れました。彼らはしかし9年後に「ビフォア・サンセット」という映画の中で再び出会い、愛を確かめました。そうして2014年(日本公開時)、現在の二人の姿がこの「ビフォア・ミッドナイト」で描かれます。
ほんの偶然から始まった愛に、リアルな時の変化を、そのまま二人の人生を、十年以上にも及ぶ期間を経た両役者や監督リチャード・リンクレイターの魂をぐっと閉じ込めた見事な映画だと思いました。

一つだけ絶対に守ってほしいのは、この作品を見る前に、絶対に前の二作を見て欲しいということ。できれば一気にでなく。せめてあなたに時間があるならば、一週間ごとにでも。

今回二人は事実上の夫婦です。だからもう、付き合う前の男女が織りなす、あなたってどういう人?君って何考えてるの?というやり取りや、あなたのここがやっぱり好きだわ、君のこんな所を愛してるんだ、なんてやり取りが全然・・・ないかと思えば、もうそういうやり取りの応酬なんです!笑
でもそんなこと言い合える夫婦っていいと思いませんか?
僕はそういうのとてもいいと思うんです。そもそも夫婦の間で会話に溢れ、時には素直に本当に言いたいことを言い合え、愛し合うときは初めての時ように愛し合えるって。もちろんそんなのが理想論だなんてわかってますよ。わかってますけど、でも二人の類まれなの努力と、本当に好きな人と結ばれた愛おしさと、相手に喜びを与え続けたいって思い、それを忘れないようにいれるなら、きっと現実でも出来るんじゃない?って思いますし、思いたいじゃないですか。なんだかいきなり話が変な方向に行きましたね笑

さて、そういう夫婦を演じるイーサン・ホークとジュリー・デルピーの何が凄いって、二人のキャラクターの芯、いわば人としての価値観や表現の仕方が「ビフォア・サンライズ」から全然ブレていないことです。
二人を見てると、見ているこっちが、あ〜あなたってこういう言い方するよね、こういう考えしてるよね、なんて思ってしまうんですよ。これって凄いことだと思いませんか?実の家族や昔ながらの親友や恋人を見ているようなんですよ。だからもう、映画を見てるのか僕の知り合いのドキュメントを見てるのか、途中訳がわからなくなりました笑
しかもシナリオや会話が縦横無尽に私、あなた、第三者、演劇の人物、メタ的な視点(映画を見てる我々にこれは映画なんですよ、と言ってしまうような感覚ですね)を行き来して、それはもう生き生きとしたコミュニケーションがなされていきます。こういったことはやはり前作、前前作があってこれに至ってるからなんですが、未だかつてこういう感覚になって映画を観た経験はありませんでした。
ジュリー・デルピーは確かに年をとったし、体型も崩れてます。でも、ちょっとした仕草や、話し方とか、綺麗な金色のロングヘアを見てると「ビフォア・サンライズ」の時の、本当に美しくて麗しい彼女がよぎるんです。そしてそれを経た彼女の、見せ掛けだけじゃない魅力に魅了されてしまうんです。そしてそんな男視点の僕の気持ちを痛いほど代弁するジェシー。彼が最後の方にとても大切なこと言うんです。でも男と女ってやっぱり意味の取り方と表現のし方が違うので、なんかとても歯がゆいんですが、僕はそんなジェシーの思い、男ならではのロマンスラブに頬の緩みが隠せませんでした。

今作もやっぱりメインは会話劇で、劇的になにか大事件が起こるわけではありません。
でもだからってどこにでも落ちているようなしょうもない会話ではありません。この会話劇はこの二人だけの特別なものです。セリーヌもジェシーもとても聡明で、ウィットにとんで、そしてヘンタイで、まっすぐです。
ツイッターや2chが時たま爆発的に面白いことになるのって、本当にどこかの誰かのお母さんと息子の会話だったり、バカップルの会話だったり、女子高生同士の会話だったりが、観衆に触れる時なわけですよ。だから僕達も本当は僕達だけの特別な会話を日々交わしてるんだなって思うと、なんだか少し楽しくなりますよね。
だから同じ日常に飽きている人は、近しい人に変な会話をふっかければいいんですよ!いや、僕はどうなるか知りませんけど、なんだかそんなことがしたくなりました笑

というわけで是非この映画を、いわんや僕らの友人の人生の一端を、劇場で確かめてほしいと思います。ギリシアのカラッとした天気が、更に気持ちのよい時間に誘ってくれますよ!