「罪の手ざわり」 〜タワーマンションやルイヴィトンやマセラティを横目にあなたは死ねるか?〜

 

 

「長江哀歌」でベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、一躍名監督になった中国のジャ・ジャンクー監督最新作「罪の手ざわり」を渋谷Bunkamuraル・シネマで観てきた。今作品でカンヌでは脚本賞を受賞。この話は中国で実際にあった殺人事件などをベースにしたもの。
一人目は地方の小さな村の炭坑の利益をうまく独占した金持ちに、正義とは何か、と恨みを持つ炭坑労働者。
二人目は妻子を残して出稼ぎに行き、行った先で強盗殺人を繰り返す寡黙な男。
三人目は遠距離でどこかのお金持ちの男と不倫をしつつ、風俗サウナで働く女。
四人目は工場で働いていたが従業員に怪我をさせたと言いがかりをつけられ、ナイトクラブでウェイターをはじめる青年だ。
この四人が少しづつ重なりながらも、それぞれをパートが分かれて話は進んでいく。

 

 

・一貫して描かれてきた、埒のあかない人々。埒のあかない場所。

罪の手ざわり

ジャ・ジャンクーはこれまでの「青の稲妻」や「プラットホーム」「世界」「四川のうた」など、どの作品でも一貫して埒のあかない、残された人々を描いてきた。残された人々というのは急激な経済成長の波に乗るでもなく、かといって躍起になって金を稼ぎたいとも思えない、方法すらわからない、そんな人々だ。
大きな川の対岸にビルが林立するのを眺め、毎夜シャンパンと美人のホステスを侍らせるオヤジ共を見つめながら、じゃどうすればあのビルに住めるのか、どうすればそんな生活になれるのか、そんな事がさっぱりわからないのだ。
人を騙せず、強かになりきれず、悪に染まりきれず、それなのに社会の光には触れる事さえできずに、闇にだけは翻弄されていく人々。

ジャ・ジャンクーはそんな彼ら彼女らと共に、その背景の街そのものもあたかも主人公のように活写していく。街や村の風景そのものが、ストーリーラインと同じレベルで観るものに中国の現在を浮かび上がらせていくのだ。げんなりするような雪と土ぼこりばかりの炭坑の村。大都市と河を挟んで、冴えない畑しかない小汚い民家。安っぽいネオンの風俗サウナと岩肌が切り立ちトラックの行き交う道。高級クラブにはコスプレをさせられた美女たちと失笑ものの見せ物。喉元からえづいてしまうようなチープさだ。

しかしこれほどまでに、「そのもの」をそのもの以上に映すジャ・ジャンクーの映画は、主人公たちへの優しさと愛に満ちている。登場する彼らはもちろん犯罪者だが、彼らは自分にとっての愛や正義を知るからこそ、その上で殺人はどうしようもなさの果てに現れる。そして彼らに共感した観客は、盛大に殺される社会的成功者の姿を見て、どこかスカっとしてしまうのだった。

 

 

・我々が無視した事を可視化するジャ・ジャンクー

罪の手ざわり

先天的なサイコパスでない限り、人は普通の不自由のない生活や、幸せの中では決して殺人や自殺を自分が行う事を想像できない。しかし犯罪と言うパラレルワールドは、実は常に世界に平行に走っていて、我々はそれに気がつかない、もしくは無視しているというのが本当の世界のリアルだ。

我々は無視という究極の自己防御手段で生きながらえている。
無視する事で幸せでいることできる。スーパーに並んだ新鮮な肉や魚はどこから来たのか、毎週捨てる可燃ゴミの行方、駅で酔いつぶれたサラリーマン、アダルトビデオの女優の顛末、隣のクラスのイジメ、誰かの自殺、テレビの向こうの強姦、殺人、被災、戦争、それら全てにコミットしていては自由など手に入らないからだ。便利で自由である生き方の裏側には、必ずその顛末を処理する誰かがいて、その処理を生活にしている誰かがいるのだ。これがこの世界の紛れもない構造なのだ。(その処理が不幸であるとは限らないが)

そんな世界の中で、我々が忘れた人々の一端をこの映画は掬い上げ、なぜやったか?ということを滔々と見せていく。理由なき殺人は突き詰めれば存在しない。理由もなくスーパーにバナナが届く訳がないのと同じように。
でも我々は、いわんやメディアも、事件を最初から最後まで見届けはしない。その事件の一つ一つの原因を探って、なぜ起きたか?ではどうやって再発を防ぐか?更には未来に起こりうる不幸をどう食い止めるか?といった問いをほとんどの人は議論にはしたくないのだ。なぜなら議論しても自分が不幸になるだけだからだ。テレビやスマホから放り出されたニュースの断片を日々眺め、その時だけ興奮する。まるでそれは予告篇だけで楽しむ映画のようなものだ。それに加えて、時に我々は不幸を知る事で幸福をかみしめる。本来、誰かの不幸は、生きのびる我々に、これから先、更によりよく生きるためにはどうすればいいか考えろ、というメッセージが伴っていたはずなのに、今やエンターテイメントの一端を担う。

ジャ・ジャンクーは、そんなただの無視される毎日の不幸なニュースを、今一度可視化する。その作業は、リアルで起きた不幸がニュースによってエンターテイメントと化したものを、再度フィクションを借りてリアルに戻すと言う、面倒な行程で成り立っているのだ。それはまるで、子孫繁栄のために進化したくせに自殺するようになった、動物よりもある意味では馬鹿な人間に対するプロパガンダのように。

 

 

・ニュ—スや情報というエンターテインメントの果てに

僕は24歳の時ブラジルへ行った。「シティオブゴッド」というブラジルのスラムを舞台にしたギャング映画が好きすぎて監督に会いにいったのだ。
現地に着いて、仲良くなったブラジル人の大学生の男の子と、こんな話をした。

僕「僕はシティオブゴッドという映画が好きでブラジルに来たんだけど、知ってる?」

学生「ああ、もちろん知ってるよ」

僕「あの映画、観た?」

学生「観てない…」

僕「どうして? あの映画めちゃくちゃ面白いよ!」

学生「…外国人がいう面白いブラジル映画は、貧困やスラムや銃社会の話ばかりだ。僕はそんなもの観たくもない。もっと楽しくてハッピーになれる映画を観たいんだよ。あんなのわざわざ観に行かないよ…なにが楽しいのさ」

僕は彼に愚かな質問をしてしまったと思った。ブラジルのリアルな貧困やギャングの血なまぐさい抗争を目の当たりにしてきた彼に、所詮は映画をファンタジックな娯楽としてしか捉えていなかった自分が露呈して、自分自身に心底がっかりしたのだった。
手を差し伸べるつもりのない興味は、刃物と同じ匂いがするんだと。だからといって興味を持たない無視という行為が、結果としてナイフ以上の大きな爆弾になって頭上に降ってくる前に、僕らはさて、どこから手を付けようかと模索して生きていくしかないんだと思う。時折垣間見えるパラレルワールドにおびえながら。

 

 



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