カルロス・レイガダス監督「闇のあとの光」(原題:POST TENEBRAS LUX)。初めてこの監督の名前を聞いたが、それもそのはず、日本にはこれで初上陸。カンヌでは過去に審査員賞などを受賞しており、今作ではカンヌ2012で監督賞を受賞した。監督はメキシコ出身。

ストーリーは、二人の子どもがいるある一家に、赤い擬人化された犬のような悪魔のようなものが訪れる。それと関わってか、平和に暮らす一家と、その周囲の人々は徐々にある破綻へと向かっていく…というもの。

どうやら監督はカール・ドライヤーや、タルコフスキーなどに影響を受けたようだが、並び評される監督は「ファザーサン」や「太陽」などのアレクサンドル・ソクーロフ、「シンレッドライン」や「ツリーオブライフ」のテレンス・マリック、「ニーチェの馬」のタル・ベーラといった、知ってる人が聞くと「おお!」と思うか「絶対に観たくない」という監督勢である笑。

こう聞くと、本作は非常にポエティックで、わかりやすさよりも映画の美や芸術性を重んじたものなのは頷けた。本作は音や映像そのものが非常に示唆的であり、こちらが様々な補完をしなければ、圧倒的睡魔が襲うような作品であった。

しかし実際のところ、個人的な意見としては、メキシコの気候や文化もあってか、ソクーロフやタル・ベーラほどに陰鬱ではないし、テレンス・マリックほどキリスト教的、宗教的なメッセージが濃い訳ではなかったと思う。

まずは映像にたいする受動的な姿勢を捨てよ

はっきり言うと本作は、観る人に様々な解釈や深い思考を促す、能動的な姿勢を強く要求してくる作品である。僕はこの「映画にたいする能動的な姿勢」と言うのはとても大切なものだと思っていて、海外の人は知らないけれど、そもそも日本人は映画やテレビを含め、映像を見る事に対して受動的すぎると思っている。

それはどういう事かと言うと、本来映画が現代芸術に属すと考える場合、それは絵画や彫刻を見る感覚と同じように接するべき部分があるはずである。

ほとんどの人は例えばピカソやダリの絵を見るとき、この絵はどういった意味があるのか?どういった感情を表現しているのか?どういった意図があるのか?などを考えて観ているはずである。

しかしそれが映画になると、一転してストーリーを軸にして全てに正解や意味を求め、提供された説明をただただ受けて、それがわからなければ意味が分からなかった、つまらない、となりがちではないだろうか?

これは我々が、映像教育をほぼ全く受けないままに、幼い頃からテレビなどを視聴してきた、という経緯があり、見せられる映像の真偽を考えたり、多面的な解釈が可能なことを知らないままに育ってきたという歴史があるからだ。

が、本来はテレビのドキュメンタリーでもニュースでもバラエティでさえも、その見方に能動的な姿勢を持って臨むのが映像のリテラシーというものだと僕は考えている。

さて前置きが長くなったが、たとえば受動的な姿勢でこの映画を観た場合に、映画館を出て第一声で会話に出る言葉は「この映画、どういう意味だったの、わかる人教えて」である。これはもう間違いない。もちろん僕自身もエンドロール開始1秒でそう思ったし、未だにそう思ってはいる。

が、つまる所本作は、内容がどういう意味かは各々が考え、あわよくばそれを観た人と話したり討論し、いつまでも意味を問いつづけるべき映画である、と言う事だ。

イコールそれは一切の受動的な姿勢を捨て、能動的に映画を観よと言うことに他ならない。

なんにでも答えをほしがる人には耐えられないかもしれないし、映画は娯楽でしかない人には退屈かもしれないが、まずそのような映画が存在する、そのような見方もあると言う事を僕は強くアピールしておきたい。

とはいえ、古くから映画自身が観客の受動的姿勢ばかりを要求してきた背景もあるし、どちらが正しい訳ではないけれど、例えば奈良の大仏を見て、ただのでかい仏像だと思うか、その存在に歴史や背景や仏教的意味、その場にいる観光客が何考えてるんだろうとか、匂いや温度を感じようとするか、まぁそんな違いなのかなと思う。

自然と人間存在の変化が垣間見える


まぁ、上記に述べたような調子の映画なので、僕は勝手に思った事を述べたい。
冒頭、おむつも取れていない女の子が山あいの、しがないサッカーフィールドらしき所で、牛さん、牛さん、と言いながら犬と一緒に走り回っている。

小さな少女の周りはハァハァ、ギャンギャンと犬たちが吠えたけり、牛や馬を牧羊犬のように追いつめている。サッカーフィールドの周囲は山に囲まれ、夕暮れ時の空には徐々に雷雲が立ちこめ、次第に暗くなって行く。

そしてマジックアワー(太陽が沈んだあとで夜になる前の、一番美しいと言われている時間の事)の終わりとともに雷鳴が鳴り響き、稲光の中で少女はシルエットになり、やがて消えてそのシーンは終わる。

このシーンは非常に印象的で、少女のあどけない儚さと、周囲の獣たちの息づかいや躍動、周辺の山や空といった大自然の威圧感や猛威との対比が、恐怖感を助長する。

僕は素直にそれを見ながら、なぜ人はこんな環境の中で犬に食われもせず、牛に殺されもせず、自然の中でいきていけるんだろうと思った。

そうしてその後、赤い悪魔が現れ、なんやかんやと一家に惨事があり、終焉へと向かう。

そして一気に飛んでしまうが、ラストシーンである。

ラストはラグビーをする小学生くらいの少年たちが、オープニングと同じような緑の整えられたラグビーフィールドで、肉弾戦で戦っている。

そしてチームメンバーが集まって円陣を組み、激励しあし叫ぶ。「俺たちはチームだ、俺たちが勝つ!」と。(うろ覚えで少し間違ってるかもしれないが)
さてこの二つのシーンで僕が象徴として受け取ったのは、自然界と人間界が離反とした歴史と、人間が自然を凌駕して生きて来た事の意味であった。

オープニングとラストで共通するのは、整ったフィールド、である。

悪魔の登場するまでのオープニングは、我々人間が自然の驚異の中で抗いつつも開拓してきた動物としての人間であり、逆に言えばある種の壊れやすさもあった時代である。

少女がそれを代弁し、音と映像の恐怖感がそれを助長する。フィールドは開拓した人間界であり、周囲はまだ自然の猛威に囲まれ、フィールドそのものも動物と混交をなすカオスであった。

しかしラストのフィールドでは、周囲に自然はなく、行われている事はラグビーと言う名の、争いである。

そして個人と言う存在からチームという集団での闘争へと変わる。これこそが人間が既に自然界との争いが終焉を迎え、人間同士の争いへとシフトした事を意味しているのではないか?そう思えた。
とある海外のブログ(http://filmint.nu/?p=8494)ではラグビーとは家父長制の現れである、と解くものもある。しかるにオープニングの少女に見る、大いなる調和と母性と言う時代から、集団闘争と父性への変化、とも見る事ができはしまいか?ということである。

オープニングのあと、赤い悪魔は謎の工具箱を持ってのっそりと家の中に入ってくる。その工具箱がなんであるかは映画では語られないし、監督もインタビューで「てめぇで考えろ」という始末だ。

では工具、ひいては道具とは何か?であるが、基本的な概念として、道具とは作業を効率的に行なう補助端末である。効率的に何かを生み出す事もできる反面、武器と言った破壊するための道具も同時に進化してきた。

キリスト教では赤いリンゴがアダムとイブに知恵をもたらしたように、赤い悪魔は我々に道具と言う端末をもたらし、変化させた一つのキーだったのではないか?と考えるのもおもしろい。

レイガダス監督が実際そういったことを言いたいかどうかは、僕としても正直知るか、である。

なにせ映像には、作り手の意図はあるにしろ、解釈の自由の解放された、無限の空間が広がっているからだ。

映画の中では他にも性に関する事や、貧困に関する事、欲望やメキシコで社会について示唆する部分がある。語り出せばキリがないが、それは自分の人生について語り出せば、いくつもの視点があるように、この作品についても一人で、あるいは誰かと解釈を勝手に語れば良いと思う。

そしてその過程で自分の人生についての良き考えや、生き方が浮かぶかもしれない。

「映画は映画館を出るまでが映画じゃなく、棺桶に入るまでが映画です」

なんて思えてきたりもする。

監督のインタビューを和訳してらっしゃるブログがあったのでこちらもどうぞ。
http://planeta-cinema.at.webry.info/201210/article_4.html